ポール・マッカートニーが、ザ・ビートルズのバック・カタログの版権を手にするため動き出した。Billboard.comによると、彼は2015年12月、U.S. Copyright Officeに必要な書類を提出したという。
ザ・ビートルズの楽曲はほとんどがマッカートニーとジョン・レノンが作ったにも関わらず、これまで彼らが版権を完全に管理することはままならなかった。
彼らはバンド初期、マネージャーのブライアン・エプスタインの薦めにより、ベテランのパブリッシャー、ディック・ジェイムスと音楽出版会社Northern Songsを設立したものの、ジェイムスが優位で2人にとって不利な契約だった。
また、ジェイムスは1967年にエプスタインが亡くなった後、マッカートニーとレノンに知らせることなくそれをATV Musicに売却してしまった。
ATVはその後、マイケル・ジャクソンが買収。最近、同社の株50%を所有してきたSonyが、ジャクソンの遺産管理団体から株を買い取り、完全子会社化すると発表していた。
アメリカでは法律(US copyright act of 1976)により、56年経つと作者が曲の権利を取り戻すことができるそうだ。
ザ・ビートルズ初期の楽曲は2018年、その対象となる。マッカートニーは主に1962~64年にかけて作った32曲に対し申請したという。
ようやくマッカートニーのもとに版権が戻りそうだが、これはアメリカに限られるそうだ。それ以外の国の版権は引き続きSony/ATVが管理することになるという。
[引用/参照/全文:https://gunosy.com/articles/RZ9bT]
マイケルに買われた著作権
ポール・マッカートニーは、ATVがビートルズの楽曲を含む全ての所有曲の著作権を売却した際、買収合戦でマイケル・ジャクソンに競い負け、「レット・イット・ビー」や「イエスタデー」などの大ヒット曲の版権を失っていた。
ポールは、1985年にATVが所有する楽曲の版権を手放した時、マイケル・ジャクソンが買収合戦に加わり、4750万ドルでビートルズの楽曲の著作権を獲得したことに猛烈に激怒し、ふたりの友情に亀裂が入ったと言われていた。
マイケルの生前、ポールはインタビューで「腹が立つのは、僕は自分の曲を演奏する度に(マイケルに)金を払わなければならないということだ。『ヘイ・ジュード』を歌う度に、僕は金を払っている」と語ったことがあった。
しかし、米国著作権法は、1978年より前に書かれた曲の著作権は56年後に作者の所有になると定めているので、5年後にはポールが自作の楽曲の版権を奪回できるという。
「ポールは何十年も怒り続けてきた。それはビジネス的なことではなく、もはや個人的なものだった。ようやく彼の曲の著作権が、正当な所有者のもとに戻ってくる」と関係者はザ・サン紙に話している。
[引用/参照/全文:http://news.walkerplus.com/article/40556/]
マイケルが版権を手にした背景
ジョン・レノンが凶弾に倒れた1年後の1981年、ATVがオーストラリアの大富豪、ロバート・ホームズ・ア・コート氏に買収された時で、その際にポールのもとにはATVが管理していたビートルズの版権を4000万ドル(当時のレートで約88億円)で買い戻すというチャンスが到来します。
ポールはジョン亡き後のオノ・ヨーコに接触し、費用の折半を提案しますが、ヨーコは買い戻し額は全部で2000万ドルが相当であると主張したことから、話し合いは不調に終わります。
ポールによると、全ての資金を一人で負担することは可能でしたが、仮にジョン亡き後に単独で版権を買い戻すことで生じる「強欲」や「ジョンへの敬意が感じられない」という悪評を懸念したことから、このときは版権の買い戻しを断念したとのこと。
手元にATVが持っているビートルズの版権が残ったホームズ氏でしたが、そもそもミュージックビジネスに関わることに関心はなかったとみられ、ATVの従業員をほぼ全員解雇し、1984年には同社のミュージック部門そのものを売りに出しました。
この際にもポールのもとに話しは舞い込んだわけですが、「高すぎる」ことを理由にこれを拒否。ここで名乗りを上げたのが、当時は版権ビジネスを手広く行っていたマイケル・ジャクソンその人でした。
マイケルのマネージャーを長年にわたって務めていたジョン・ブランカ氏のもとにATV売却の話しが舞い込んだ時、マイケルはブランカ氏に「いくらかかってもいいからビートルズの版権を手に入れること」と指示。
こうしてビートルズの版権はマイケルのもとに移ることとなりました。
なお、この話の背景には皮肉なエピソードが隠されています。
ポールとマイケルはそれまでに「ガール・イズ・マイン」と「セイ・セイ・セイ」という2曲をデュエットで発表していたこともあり、良好な関係を築いていました。
1982年のある日、ロンドン郊外にあるポールの自宅を訪れ、ポールの妻リンダ(故人)とディナーを共にしていたマイケルは、ポールから「大金を手にできるのは版権を所有することだけだ」という手ほどきを受けたと言います。
巡り巡ってその2年後、そのマイケルがビートルズの版権を所有することになるとは、当の本人すら予想できなかったことなのかもしれません。この一件をきっかけに、ポールとマイケルの関係は険悪なものになったといわれています。
[引用/参照/全文:http://gigazine.net/news/20160106-lennon-mccartney-copyright/]