日本パンクロック界をけん引した伝説のバンド「ザ・スターリン」のボーカルで、4月25日に亡くなった遠藤ミチロウ(享年68)さんの悲報を受けて、各界から追悼の声があがっている。
ダイアモンドユカイ(57)
「小さなライブハウスでギター一本で弾き語りしていた貴方の歌は独特で美しい世界だった。ミチロウさんご冥福をお祈りします」
田島貴男(ORIGINAL LOVE・53)
「ミチロウさんのライブは何十年経ってもまだ自分の血液の中に痕跡として残っている気がしてます。ありがとうございました」
山本恭司(BOWWOW・63)
「70年代に対バンした時は噂通り楽屋には物凄い物が用意されていてライブ中それを客席に投げ入れたりしていた。ずっと怖い人だと思っていたら腰の低いとても優しい人だった。最後に会ったのはエンケン(2017年10月に70歳で死去した遠藤賢司)さんの入院先の病院のロビーでだった。叫ぶ詩人の死、とても残念だ」
中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン・53)
「このところずっと、弾き語りで訪れる各地でミチロウさんの話をしてた。皆本当にミチロウさんのことを愛してた。『弾き語り始めたんですよ』『おー一緒にやろうよー』と電話で話したのは数年前。思い出は尽きない。無念。ミチロウさん、あなたは俺にとって唯一無二の偉大なパンク歌手でした。安らかに!」
KenKen(RIZE・33)
「ミチロウさん、あなたは本当にカッコよかった。そして、本当に優しかった。俺はスターリンのベースだった事、ずっと自慢するよ」
高橋源一郎(作家・68)
「何度かお会いして一緒にお仕事もしましたが、そんなときはいつも、同じ学年なんだなあと感じたものでした。もうずっと前のことですが。お話をするときのミチロウさんは、ライヴの時とは違い、ほんとうに穏やかで繊細な方でした。さよなら、ミチロウさん」
香山リカ(精神科医・58)
「最後に見たのは、たしか3年ほど前の新宿ロフトのイベント。楽屋ではニコニコやさしいのに、ステージでサイレン鳴らして『ワルシャワの幻想』やるときは十分不穏だった。その後私がNHKのラジオ出たときリクエスト曲に『ワルシャワ~』選び、かかったときはスタジオで高笑いした。悲しい…」
遠藤さんは福島県二本松市出身。葬儀は近親者のみで執り行い、後日音楽葬を予定。昨年10月に膵臓(すいぞう)がんの手術を受けたことを公表し、闘病中だった。
1980年にザ・スターリンを結成。豚の生首を客席に投げつけたりマイクではなく拡声器で歌うなど、過激なライブと言動でパンク界のカリスマとなった。
[via:スポニチ]
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/01/kiji/20190501s00041000192000c.html
三宅弘城(グループ魂)
「ミチロウさん、ありがとうございました。本当にありがとうございました。涙が止まりません。歌ってる時の背中、一生忘れません」
「グループ魂にはアタクシが作曲した『遠藤ミチロウ』という曲があります。ありがとうミチロウさん」
[via:日刊スポーツ]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201905010000221.html
THE STALINはブラックユーモアがコンセプト
ーパンクは元々好きだったんですか?
「アコースティックで東京に出てきて、たまたま住んでたアパートの向かいにあった喫茶店が、パンクをガンガンかけていたんですよ。そこで初めてSex Pistolsとかパティ・スミスとか聴いて「パンクいいなぁ」と思って、DEVOの初来日を観に行きました。
DEVOを初めて観てショックを受けて、エレキを持って身体中ビニールテープでぐるぐる巻きにしたりして、1人DEVOみたいなことを始めたんです。
でもバンドやらなきゃと思って作り出したのがコケシドールかな。まだそのときは自分もギターを弾いてたんで。
コケシドール、バラシとバンドをやって、やっぱりギター弾いてるとダメだなって思って、ボーカルだけになって自閉体をやって、THE STALINでやっとパンクっぽいバンドになった感じですね。」
ー海外からのTHE STALINへの評価ってどうだったんですか?
「当時、ベルリンの壁がなくなって一週間後に、友達と2人でベルリンとかポーランドへ行ったんです。ポーランドに行ったときに、次の年の野外フェスに出るっていう話をして、次の年にSTALINで東欧ツアーということで再びポーランドに行ったんですよ。」
ーポーランドではどうでしたか?
「『お前ら最高の名前つけたな!』ってすごく喜ばれましたよ。その皮肉がわかるんですよね。むこうはブラックユーモアをよくわかってくれるんです。盛り上がりましたね。
ソ連のヨシフ・スターリンを大嫌いな国の連中が、拳を振り上げて「STALIN! STALIN!」ってコールするんですから素晴らしいですよ(笑)。」
ーバンドのスタイルは常にそんな感じだったんですか?
「THE STALINって名前をつけること自体が一つのパロディじゃないけど、ブラックユーモアというかそういうことなんですよ。基本的にSTALINって、実はブラックユーモアがバンドのコンセプトなんですよね。
歌詞も全部そういう感じなんですよ。怒りというよりも、パロディをすることで批評的な内容が入ってくるじゃないですか。受け手が勝手に勘違いしてくれるのも楽しんじゃうみたいなところもあります。
メジャーデビューアルバム『STOP JAP』を出したときに歌詞を直させられたので、「『虫』では別に意味が通じなくてもいいや」みたいな感じで直しようのない歌詞にしたんです。
あの頃は『アルバム出すごとに変わっていかなきゃ』っていうのがあったんで、意識して変えてましたね。『虫』が一番ハードコアなアルバムですよね。」
ー東京ロッカーズの頃から現在まで現役で活動していた、THE FOOLSの伊藤耕さんがこの前亡くなりましたが、耕さんとはどのような付き合いを?
「たぶんまだTHE FOOLSじゃない頃のSYZEかSEXでどこかで一緒にやってる感じですね。FOOLSになってからもイベントで一緒になったぐらいで、そんなに交流はなかったです。
東京ロッカーズの中では、LIZARDは何回か一緒にやってたんですけど、THE STALINをやり始める前から東京ロッカーズはやってるじゃないですか。
同期ではないですけど、僕が同期と感じたのはやっぱりじゃがたらですよ。THE STALINとじゃがたらとはよく一緒にやってたんで。
じゃがたらってスキャンダラスなステージですごいじゃないですか。これに負けちゃいけないっていうんで、THE STALINもめちゃくちゃになっていったんですよね。
THE STALINがああいう過激なステージになっていったのもじゃがたらの影響ですよ。じゃがたらの影響は大きいですね。」
江戸アケミ(じゃがたら)
ーその頃だと思いますが、町田町蔵さんがINUでメジャーデビューしましたよね。
「バラシをやっていたあたりの頃、京都・大阪ツアーをやったときに初めてINUのライブを観たんですよ。そのときに「かっこいいなぁ〜」と思ってギター弾くのをやめて、自閉体を作ったんです。ボーカルだけのスタイルになったのは、INUの影響はありますよね。」
ーTHE STALINが「メシ喰わせろ!」と歌っていたのは、INUの「メシ喰うな!」へのアンチテーゼなのかと思ってました。
「『パロディやっちゃおうぜ』みたいに楽しんでましたね。なんせ一番最初に『メシ喰わせろ!』を歌ったときは、犬の首輪して裸で四つん這いになって這い回って、犬みたいな仕草しながら歌ってましたから。」
ーTHE STALINを聴いて、そこからインディーズを聴いていく人は多かったですよ。田舎の人だと特にレコードはメジャーのものしか買えないじゃないですか。
「そうですね。あの頃STALINはインディーズで全国ツアーを最初にやったバンドなんです。
だから、行く先々でああいうステージをやっていくと、地方の子たちは『パンクのライブはこういうものだ』と思っちゃって、あとから行くバンドに『お前らのせいでエライ目にあった』って文句言われましたよ(笑)。
あと、ちょうどSTALINが悪役バンドの役で出た映画『爆裂都市 バーストシティ』が公開されたあとに『STOP JAP』が出てるから、その影響も大きいのかも。」
ー『バーストシティ』の影響は大きいです。『バーストシティ』はどういう経緯で出ることになったんですか?
「渋谷の屋根裏でライブをやったときに、監督の石井聰亙(現:石井岳龍)さんが杉山シンタロウと知り合いで観にきたんですよ。
そのときにやっぱりグチャグチャのライブで、THE STALINを観て石井さんが映画に使おうって思ったんじゃないですかね。」
ー『バーストシティ』の公開、『STOP JAP』の発売があった1982年は、日比谷野音で『五烈』というライブも行われましたよね。
「そう、その直後にあったんですよね。アナーキー、THE STALIN、ロッカーズ、ARB、BOWWOWで。BOWWOWだけ全然パンクじゃなかったけど。
当時、THE STALINは自分のアンプを持ってなかったんですよ。でも、BOWWOWが全部貸してくれたんですよね。いい人たちだった(笑)。
『五烈』のときは何やってもいいって言われてたから、豚の頭10個ぐらい用意して行きましたね。でも、出番寸前にダメだって言われて(笑)。
やっちゃいけないって言われたんですけど「臓物は投げていいですか?」って聞いたら「臓物はいい」って言われて、臓物だけ投げたんですよ(笑)。
ーやっちまえ! みたいな感じじゃないんですね(笑)。
「だってあれ、内田裕也さんが主催で、何やってもいいって言ったのも裕也さんで。でもやっちゃダメだって言われたらね(笑)。
気持ち的には「何やってもいいって言ってたじゃないか!」って思ってたんですけど(笑)。でも臓物投げたおかげで野音出入り禁止で(笑)。」
ーミチロウさんはやってることがずっとパンクですよね?
「わかんないですね。自分がパンクっていうふうには考えてないですけどね。」
ーでもソロの歌詞にしても、様々な行動にしても、アンチテーゼなところが大きいと思うんですよ。
「あんまりそういうのは意識してないですけど。」
ーパンクっていう意識はないんですね。
「ないです。パンクだからアンチテーゼっていうのも変なとらえ方じゃないですか。」
ーTHE STALINの頃もなかったんですか?
「THE STALINの頃はありましたよ、パンクだっていうのは。あれはパンクやろうって思ってやってたんで。」
ーそういう意識がなくなったのはいつぐらいからですか?
「THEのつくSTALINをやめてからですね。」
ーTHE STALINの解散の理由っていうのはなんですか?
「まぁ色々あるじゃないですか。だいたいバンドがダメになるときって色んな問題がありますよ。たぶんパンクっていうふうにこだわっちゃうと、ある意味ではだんだん狭いイメージになっていくじゃないですか。
それで逆に、そういうのを全部とっ払いたいなっていう。だからあえて、ソロになってヒップホップ的なリズムでやっちゃってみたり。」
[via:リアルサウンド[2017/12]インタビューから一部抜粋]
https://realsound.jp/2017/12/post-143852.html