□ 日南響子(20)が『週刊プレイボーイ』1月26日号(集英社)の袋とじで初のヌードを披露し、話題を呼んでいる。
日南響子といえば、『ニコラ』(新潮社)専属モデルから『non-no』(集英社)専属モデルへという王道を歩み、グラビアアイドル・女優としても人気を集めはじめた矢先に、交際相手からTwitter上でのリベンジポルノ的な暴露をされ、自殺未遂、そして大手事務所を退社......など、さまざまトラブルの末、2013年に活動休止を余儀なくされた「悲劇の(メンヘル)アイドル」です。
うまく立ち回ればいずれ芸能界で北川景子ほどのポジションに就けたかもしれない彼女のフルヌードに、驚いた方は多いようです。
大抵のタレントさんは自己顕示欲の塊です。落ち目のタレントさんがヌードになるのは、再び注目を集めてスポットライトの光を浴びたいからです。熱い照明および喝采を得る快感は、何ものにも替えがたいものなのですね。
日南さんの週プレヌードグラビアは、25日発売予定の新作写真集に収録されているものですが、乳首まで露出しているためネット上では「転落人生」だとか「起死回生の一手か」などと受け取られています。
大手事務所を離れ、「珠麟(しゅりん)」名義での音楽活動メインで頑張っている彼女ですが、Twitter上で地道にライヴ告知をしている様子からも、王道を逸れて落ちぶれたタレント......という見方は理解できます。
たしかに「このコ、いまグイグイきてるな~」という勢いは感じられず「転落」と言われるのもわからなくもありません。
ヌード=転落なのか?こうした世間の反応に対して、講談社ミスiD2014、渡賀レイチェルがブログ上で疑問を投げかけています。
「日南響子が20歳なのに裸に!転落人生
みたいなことが書いてあって疑問に思った
裸になることは何故転落なんだろう
裸になることはいけないことなんですか
分からない
美しい人が美しい裸を見せるのが、どうして転落なんだろう」
(『日南響子の裸について』より)。
「落ち目になって起死回生のヌード」というストーリーに飼いならされている受け手の意識を突いている。
だれかがハダカになる背景には、やましかったり隠したかったりする、なんらかのネガティブな理由があるに違いない、と勝手に思い込んでしまう。
被写体に「きっと大変なんだね......」と同情してしまう人まで登場するのは、もう滑稽の域とも言えましょう。
それは被写体にとって不幸なことと思います。たとえ被写体がアートや表現のひとつとしてヌードを選んだとしても「転落の果てのヌード」として解釈されてしまい、意図がまったく伝わらないからです。
日南響子の今回のヌードを見る限り、彼女のハダカは、アートであり、表現なのでしょう。
それは『プレイボーイ』のほかのページに掲載された、「被写体が可愛かったら、エロかったら良いんだろ?」、という男側のメッセージ溢れるセクシーグラビアとは一線を画している。
消費されるためのヌードではない、恵まれた容姿をフルに活かした彼女なりの美しい表現です。乳首が出ててもエロくない。にも関わらず、容易にそれは"転落"と変換され受け取られる。
この慣習化された理解を打破しない限り、いくら「美しい裸」であっても「物悲しい裸」と受け取られるままでしょう。受け手と送り手の間にコミュニケーションが成立しないのです。とはいえ「この裸はアートなんだ、表現なんだ」と送り手側が強く思っていたとしても、受け手に「そういう表現は別に求めてませんから......」と拒まれてしまえば、それでおしまいでです。
日南響子のヌードは、ディスコミュニケーションであるということです。実際、彼女のヌードに対して、ネット上には「せっかく脱いでもらったけど(アートでは)ヌケないからノーサンキュー」との感想もあがっています。
こうした反応を見るにつけ、「グラビアなんか可愛かったら、エロかったら良いんだよ」という、ヌケるかどうかで価値を判別する「ヌキ原理主義」の存在を実感せざるを得ません。
肌を隠す面積が少なければ少ないほどエロく、過激であるはずの写真が、「隠す面積ゼロ、乳首出しちゃってます、でもカッコイイでしょ?」となった途端に「いいえ、ヌケないヌードは要りません」とばかりに否定されてしまう。
つまり価値を認められなくなってしまう。
日南さんのヌード自体はタレントとしての価値暴落を意味していないのに、「男性器を昂揚させる自慰用のオカズ」としては「エロ>アート」なので、その観点で見れば価値が転落していると言えるかもしれませんが。。。
[引用/参照:http://mess-y.com/archives/16435]
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