第87回選抜高校野球決勝戦、敦賀気比(福井)が東海大四(北海道)を逆転で下し、初優勝を果たした。北陸に優勝旗が渡るのは春夏通じて初めて。
「選抜高校野球・決勝、敦賀気比3-1東海大四」(1日、甲子園)
歓喜の輪の中で敦賀気比・平沼翔太投手(3年)は号泣していた。初戦から5試合すべて完投。気迫の計603球で頂点にたどり着いた。「無我夢中でした。小さいころからの夢がかなってうれしい」。鉄腕エースは真っ赤な目で喜びを口にした。
天国の”恩人”も喜んでくれるはずだ。
09年の小学6年生の時、平沼は硬式少年野球チーム「オールスター福井」に体験入部するため、練習場を訪れた。そこで総監督を務めていたのが元阪神のエース・小林繁さんだった。
小林さんは地元で「天才」と呼ばれていた平沼を呼び寄せ、「お前より才能があるやつはいっぱいいる。絶対に天狗になるな」と語りかけたという。
それから間もない10年1月、小林さんは心不全で亡くなった。57歳だった。
平沼は小林さんからの言葉を胸に練習に明け暮れた。敦賀気比でも1年春からマウンドに上がったが、おごることなく上を目指した。仲間がミスして沈んでいれば、陽気に歌を歌って盛り上げた。
夢をかけた決勝戦。連投の疲れで「体は重かった」が、気力で腕を振った。ピンチの連続にも耐え抜き、8安打1失点に抑えた。
春の王者になっても”天狗”にはならない。まだ夏がある。「追われる立場になった。死にものぐるいで向かっていきたい」。少しだけ喜びに浸ったあと、再び厳しい鍛錬に向かう。
[引用/参照:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150402-00000019-dal-base]
□ 小林繁氏が見出した才能
福井県勢初優勝を果たした敦賀気比の投打の柱、平沼翔太。
1年生の時からスタメンに名を連ね、「このチームはピッチャーがいない」という酷評をバネに2年生から背番号「1」を背負い、日本一のチームのエースへと上り詰めた。
抜群の制球力、ピンチにも動じない冷静さは努力のたまものだが、その才能を数年前にいち早く見抜いた人物がいた。プロ野球で通算139勝を挙げた阪神の大エース、故小林繁氏だ。
2人が出会ったのは、小林氏が57歳で亡くなるまで総監督を務めていた中学硬式野球チーム「オールスター福井」の練習場だった。
オールスター福井には県内の才能溢れる中学生球児が毎年集まるが、小林氏が体験入部に来た当時小学6年生の平沼の才能を見出すのに時間はかからなかった。
一目見た瞬間にチームの首脳陣に駆け寄り「よくやった。よくこんな才能を見つけてきた。必ずプロ野球選手になる」と語ったという。
小林氏の見立て通り、平沼はヤングリーグ台湾遠征や国際大会の中日本代表チームのメンバーに選ばれるなど才能が開花。2013年、甲子園の常連校・敦賀気比に進学すると、1年生ながら春の県大会でメンバー入り。
同校初のセンバツ4強の原動力となった2年先輩の岸本淳希(現・中日)がチームを抜けた後、エース不在といわれる中で実力を伸ばしエースの座を射止めた。
2014年夏の甲子園、大阪桐蔭戦の大量失点を機にさらなる成長を誓い、地元でプロ野球の元トレーナーから指導を受けるなどして、一回りも二回りも大きなエースになった。
生前の小林さんと「福井に優勝旗を持ってくる」と約束。東哲平監督(34)は「決勝戦の朝、平沼と『勝って墓前に報告するぞ』と話した。それがかなってうれしい」。野球哲学を教えてもらった恩人への思いも、夢舞台の支えとなった。
「小林さんは優勝旗を持ってきてほしいといっていたから、いい報告ができるのはうれしい」と平沼。全5試合を完投し603球を投じる熱投。小林氏の見立て通りならまだこの先があるはずだ。
甲子園で優勝を決めたマウンド裁きに、小林氏も天国で目を細めていることだろう。
[引用/参照:http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/hibaseball/67878.html]