前橋育英1-0流通経大柏[2018/1/8]
全国高校サッカー選手権
前橋育英1-0流通経大柏
[決勝◇8日◇埼玉]
前橋育英(群馬)が流通経大柏(千葉)を1-0で破り、初優勝を果たした。後半ロスタイム、ゴール前のこぼれ球をFW榎本樹(2年)が蹴り込んで、劇的な優勝決定ゴール。
82年に就任した山田耕介監督(58)は、部員が20人にも満たない弱小チームを4大会連続21度目出場の名門へと育て、36年目での悲願に涙した。群馬県勢としても初制覇となった。
延長突入目前だった。ロングスローからつなぎ、FW飯島のシュートのこぼれ球をFW榎本が右足で蹴り込むと、山田監督は両拳でガッツポーズした。
「延長も覚悟していた。この1年間の泥臭さが最後の1点につながった。感無量です」。優勝インタビューでは感極まって男泣きした。
何度もチャンスをつくったが、ゴールが遠かった。高い位置まで上がる相手サイドバックの裏のスペースを突く攻撃がはまり、前半ロスタイムには飯島のシュートがポスト、後半19分にはMF五十嵐のシュートがクロスバーを直撃した。じりじりと攻め込み、最後の最後で1点をもぎとった。
長い道のりだった。82年4月。山田新監督が初めてグラウンドに足を運ぶと、リーゼント頭の部員20人弱が待っていた。「お前、誰や」「山田と申します」。それが始まりだった。
当時は県大会初戦敗退の「常連」。改革に着手した。「走ろうと言っても走らない。一緒に走って、俺に抜かれたら罰走だと言うと走る。そしたら『サッカーじゃ負けるから柔道、相撲で勝負しましょう』と。当時は自分もパワーありますから勝っちゃうんですけどね」。
選手権には86年度に初出場し、93年度にようやく初勝利を挙げた。00年にはJFA公認S級ライセンスも取得し、高円宮杯U-18プリンスリーグ開設にも携わるなど高校サッカーの強化にも奔走した。チームを選手権21度の出場に導き、今では部員160人を抱える名門へと育て上げた。
3大会前の決勝は延長で、前回は0-5の大敗で涙をのんだ。なかなか頂点へは手が届かず「勝負弱いと言われて辞めようと思った」と漏らしたこともある。それだけに、勝利の瞬間は「ホッとした。また負けたら何を言われるかと」と本音を漏らした。
昨春から校長に就任し「365日休みがない」という多忙な日々。会議などで練習に出られない日は練習メニューを主将のMF田部井涼らに託した。DF渡辺は「ギリギリまで練習を見てくれて、自分たちのことを思ってくれている」と感謝した。
35年をかけて刻んだ優勝の2文字。山田監督は「来年も引き続きやっていけるように」と早くも連覇をにらんだ。
[via:https://www.nikkansports.com/soccer/news/201801090000010.html]
前橋育英に赴任したワケ
長崎出身の山田監督が群馬へ来ることになったのは、少々偶発的な背景がある。「自分は長崎で教員になるつもりだった」と言う山田監督は、その教員試験に向けて準備を進めていた。1981年度のことである。
島原商業高時代の恩師である小嶺忠敏監督(現・長崎総科大附高監督)も、自分の後継者と見込んでいた愛弟子の帰還を待ち望んでおり、ある意味で自然な進路選択だった。
長崎総合科学大付 小嶺忠敏監督
ところが、所属する法政大が全国大会で勝ち残っており、その準決勝と教員試験の日程がバッティングしてしまったのだ。
事前に分かっていたことなので「監督、この日だけはお願いします」と根回しもして了解を得ていたつもりだったが、いざ準決勝進出が決まると話がコロリと変わる。
「『おい、耕介。お前はサッカーと試験、どっちが大事なんだ?』と迫られてね。『サ、サッカーです』と答えてしまった」(山田監督)ことで、未来が急転することとなってしまった。
元よりサッカーの実力は高く評価されていたので、進路自体に困っていたわけではない。当時はJリーグ開幕前だが、富士通(現・川崎フロンターレ)への加入が決まり、卒業後もサッカー選手としてやっていくことが決まりかけていた。
「小嶺先生のような教師になるんだ」という大志を捨てたわけではないが、道がなくなってしまったのなら仕方ない。そう思って、大学生活も残りわずかとなった2月になって、事態は急転することとなる。
前橋育英高校から教員として採用したいという話が舞い込んだのだ。
この背景もちょっと複雑だ。実は群馬県が翌年に国体開催を控えており、当時はいま以上に権威のあったこの大会へ向けて県をあげての強化が進められていた。有力選手を「教員」として引っ張るのも珍しい話ではない。
思わぬ形で「教員」の夢を叶えられる道が見えたため、この話に乗って「縁もゆかりも何もなかった」群馬の地へ赴くこととなった。もっとも当時はあくまで「翌年の国体が終わったら、長崎に戻って教員になろう」というプランだった。
だが、山田監督が企んでいた「長崎帰還プラン」は破綻することになる。
小嶺先生からは毎年「まだなのか?」という催促の電話がかかってきたのだが、「先生、いま見ているこの子たちを見捨てるわけにはいかないので」と断るものの、「でも次の年には新しい子が入ってくるんですよね(笑)。そうすると、『この子たちも見捨てるわけにはいかない』という気持ちにやっぱりなるんですよ」(山田監督)
やがて群馬で家庭を築き、両親も群馬に呼び寄せた山田監督は、すっかり「群馬の男」になって「いつか小嶺先生のように」という夢を追い掛けることになる。
[via:https://news.yahoo.co.jp/byline/kawabataakihiko/20180108-00080243/]
高校サッカーに訪れた時代の潮流とは
転換点は、少し皮肉な話になるが、選手が集まりにくくなってきたこともあるように思う。プリンスリーグ関東の舞台で肌を合わせるJクラブのユースチームに対して、この10年ほどで内容面で劣勢になる試合が増えていったからだ。
「Jのユースと集まってくる選手の質に差が開いたと感じるようになった。普通にぶつかったら勝てないなと感じるようになった」(山田監督)
ボールを持ち合う「美しく」を競う勝負になったら勝てないのならば、原点回帰を強めるしかない。
前橋育英が今季掲げた5つの原則「球際」「切り替え」「ハードワーク」「声」「競り合い・拾い合い」は、まさにそれを象徴するものだろう。
この原則を掲げるようになった直接的な切っ掛けは青森山田との前回大会決勝なのだが、もともと前橋育英が“そちら側”へ傾斜しつつある中だったからこそ、受け入れられた要素でもあった。
青森山田5-0前橋育英[2017/1/9]
今大会決勝を戦った前橋育英と流通経済大柏の両チームは現代高校サッカーを代表するチームである。だが、決勝のピッチに立った選手に中学時代から「エリート」だったような選手はほとんど見当たらない。こ
れは別段たまたまそうなったのではなく、そういう時代になっているからだ。昨年のU-17ワールドカップの日本代表に高校サッカーの選手が一人もいなかったことが象徴しているように、“超中学級”のような選手が高校サッカーを選ぶ例はもはや僅少になっているのは紛れもない事実。
指導者はその中でいかに選手を鍛えて強いチームを作るかが問われるようになっている。それはいわゆる名門校でも例外ではない。
「ポゼッションかカウンターかとか、技術か体力かとか言うけれど、今はもう、どっちも持ってないと勝てないんだ」と喝破したのは前回大会優勝時の青森山田・黒田剛監督だが、最終的に「強く激しく美しく」を体現した前橋育英にも当てはまる要素だろう。
一人ひとりがしっかりした技術を持った上で、なおかつ戦える選手の集団に仕上がっていた。強さ激しさだけでは勝てないし、美しさだけでも勝てない。試行錯誤を何年も重ねた末、そのバランスが最も取れるチームになった前橋育英が栄冠を勝ち取ったのは、自然な流れだったのかもしれない。
[via:http://www.goal.com/jp/]
ネットの反応
・いい試合だったわ
・久々に面白い決勝が見れたわ
・これ以上の1-0の試合はないほどの素晴らしい試合だった!
・もっと圧倒するかとおもったけどなかなかおもろかったで
・前橋育英は選手権で、野球とサッカーで頂点に立ったんだな。
帝京以来の快挙か?
・両チームとも運動量が凄いわ
連戦なのに何であんなに動けるかね?
・流経大柏の三本木くんを褒めてあげたい
・Jユースも含めた大会にすればもっと盛り上がるのに
・群馬のサッカー界に僅かな光が差した
高校サッカー自体ユースに人材を取られた上にグンマーはJ3だけどw
・決勝戦でも観客埋まらないのな。やっぱ甲子園みたくはならんか。
https://www.youtube.com/watch?v=YTywZ62DdGo