十年を一昔というなら、さらに2年の歳月が加わる昔日である。
1998年11月27日、オリックス・ブルーウェーブ(現バファローズ)のスカウトを束ねる編成部長・三輪田勝利は那覇市の賃貸マンション12階から身を投げた。
同年のドラフトで1位指名した沖縄水産高・新垣渚投手(現福岡ソフトバンク・ホークス)との入団交渉の最中のこと。
彼は野球部監督、代理人、他球団が入り交じる交渉難航を苦にしての自死だった。
享年53。
このとき、球界はコミッショナーを筆頭に誰一人として、「裏金」の絡むドラフト制度の不条理に言及しなかった。
スカウトの自殺は、あくまで一個人の問題であると看過した。
いまだに悲憤を禁じ得ない。
唯一の救いは、翌年に弁護士・川人博氏等の尽力で労働省と神戸東労基署が三輪田の自殺を「入団交渉を巡る過重なストレスが要因」と労災認定したことだ。
自殺が労災と認められた第1号だった。
話はさらにさかのぼって91年のドラフト。
オリックスは愛知・愛工大名電のエースで四番打者の鈴木一朗を4順目に単独指名した。
この順位、全体から見れば中位以下、注目されることのない下位指名選手である。
こんなエピソードがある。
県内の高校野球関係者が鈴木を地元の中日ドラゴンズに推薦した。
返ってきたのは歯牙にもかけない一言だった。
「線が細すぎる」
東海地区の担当だったスカウト部員・三輪田は鈴木を投手ではなく打者として卓越した資質ありと練習試合までも追いかけ、ドラフト前の編成会議で獲得を強く進言した。
契約金4000万円、年俸430万円。
こうして、メジャーリーグで揺るぎないスーパースターの座を保ち続ける「イチロー」(シアトル・マリナーズ)は生まれたのだ。
プロ球界に「スカウト冥利に尽きる」という言い回しがある。
埋もれた逸材を探し出し、やがて、その選手が球界を代表するトッププレーヤーに成長する。
そんなとき、担当したスカウトに対し、見る目の確かさを称賛する語句だ。
あるいは、話題が大成した選手に及んだとき、自らがさりげなくうれしい心情を吐露する言葉でもある。
このとき、選手は無名で、獲得に当たっては透明で割安な投資(契約金と年俸)であれば、これに越したことはない。
この世界の俗な表現を借りれば「安い買い物の大化け」ということである。
イチローのたぐいまれな才能を見抜いてプロの世界に導いた三輪田の眼力は、スカウト冥利の極致と言ってよいだろう。
2010年のドラフトは、12球団が68選手を指名した。
スカウト冥利を味わうスカウトは、果たしているだろうか。
神戸市住吉山手、大阪湾を望む山あいの南面。
三輪田は、あとを追うように膵臓がんで黄泉へと旅立った妻の民子さんと同じ墓に眠る。
年末のある日、一度たりとも欠かすことなく、墓前に抱えきれない花とセブンスターと缶ビールが供えられる。
手を合わせるのはイチローと妻・弓子さんである。
[ZAKZAK]