東京から9600km、飛行時間12時間30分前後という場所にある、イギリス・ロンドン。本木雅弘(50才)がその街に一家で引っ越したのは2012年のこと。
長男(18才)がアメリカに留学中の2010年に、妻・内田也哉子(40才)との間に次男(5才)が誕生した後、長女(16才)が留学することになって移住を決意した。
「娘さんの留学先は、一応は寄宿学校だったんですが、イギリスの学校は細々とした休みが多く、その間は学校を空けるという規則があるんです。
里親をつけることもできたんですが、慣れるまでは自分たちでフォローしようということになって、イギリス行きを決めたそうです。
ただ、当初は3か月のつもりだったんですが、本木さんの中で、これまでと少し違う風景を見たいという思いもあって、そのまま3年が過ぎたという状況なんですよ」(映画関係者)
1995年に也哉子と結婚した本木は、也哉子の母、樹木希林(73才)のたっての希望で婿養子となっている。2001年には都内で、二世帯同居生活をスタート。
本木と樹木は、自宅はそれぞれの空間を大切にしようと話し合って、1階が樹木と内田裕也(76才)の住まい、2階が本木一家の住まいとした。両家はエレベーターのみでつながっており、階段では行き来できない構造となっているという。
樹木は夫の内田とは別居している時期も長い。彼女にとって、子供と孫に囲まれて暮らす生活はこの上ない幸せだった。その矢先、彼女を病魔が襲う。2003年に網膜剥離で左目を失明。翌2004年、61才のときに乳がんを宣告され、右乳房を全摘出した。
この日をさかいに、樹木の暮らし方は変わった。
「家族や人から譲られたものを使い回すだけで充分」と、この10年以上もの間、服は買ったことがない。「物の冥利を見極めて終わりたい」と、古くなった靴下ははさみで切ってぞうきんにするなどして、とことん使い切る。
一方、不要な贈り物は、「使いませんから」ときっぱり断る。「死後に何も残したくない」との思いからだ。
神社にお参りに行っても願いごとをしない。その真意を、新聞のインタビューで「願いごとが叶ったら神様にお礼に行かなきゃ悪いじゃない。でも行けないかもしれないし」と明かした。
そして、内田家を守る本木には「死ぬときは自宅で死にたい」と、“その時”を託している。
しかし、冒頭の通り、現在本木一家の拠点は、遠く離れたロンドン。しかも移住を決めた2012年は、樹木のがんが、副腎や脊椎への転移が発覚した頃と重なる──。
2009年、第81回米アカデミー賞で、現代映画では日本映画史上初めてとなる外国語映画賞を受賞した『おくりびと』。同年の日本アカデミー賞で本木は、最優秀主演男優賞を受賞した。その授賞式で司会を務めていたのが樹木。
「うちには“おくりびと”がいるので、安心して去れます」と、娘婿を祝福した。しかしそれから3年後、本木は樹木と暮らす自宅から出て、イギリスへ渡り、今に至る。いったいなぜなのか?
「次男は、本木さん夫妻にとって10年ぶりの子供ということもあって、内田家にとって素晴らしい出来事となりました。もう家族全員で大喜び。
それで本木さんと也哉子さんは、“家族は一緒に生活するべき”ということを改めて考えたそうなんです」(前出・映画関係者)
本木自身がその思いを、雑誌のインタビューでこう語っている。
《僕も兄弟がいる中で育っているので、揉まれていくのがいいかなと。兄弟がいる安心感もきちんと育んであげたいので、なんとなく兄弟を切り離せない》
一方で本木は、樹木の、子供への接し方を尊敬している。
「お正月にお子さんが樹木さんからもらったお年玉のポチ袋が、樹木さんが箸の袋を再利用したもので、子供にリサイクルの意味を伝えられたこともあったようですし、子供も一人の人間なので、周りの大人の判断を押しつけちゃいけないとか、学ぶべきことがたくさんあると話していたことがあります。
樹木さんは“今は親が子供に過干渉すぎる”という考えですから、祖母の立場で本木さんたちにあれこれいうこともありませんし、そこは彼らの子育てを信頼しています。
ですから自分の最期うんぬんで、孫に影響を与えたくないという思いが強かったんでしょう。ロンドン移住については、互いに話し合って、納得して決めたことだったそうです」(樹木の知人)
盆や正月、学校の長期休暇には、家族みんなが顔を合わせる。次男は内田が大好きで、会えば駆け寄って抱きつく。この時ばかりは内田もサングラスを外し、ロックンロールとは程遠いデレデレ状態。
目は頬にまでいきそうなほどタレ下がり、優しいおじいさんになるという。
[引用/参照/全文:女性セブン2016年3月17日号]
http://www.news-postseven.com/archives/20160303_390520.html
全身がんの樹木希林が死なないワケ
女優・樹木希林(73)の口から「全身がん宣言」が飛び出したのは2013年3月のことだった。あれから3年。樹木は精力的に映画やイベントに出演を続け、「本当にがんなの?」という声さえ上がるほど。
なんでそんなに元気なのだろうか?
2月9日放送のNHK『クローズアップ現代』。ゲスト出演した樹木は、キャスターの国谷裕子氏に「全身にがんが転移しているとはまったく思えないが?」と問われると、いつもの自嘲気味な微笑を浮かべながらこう答えた。
「来週にはまた治療に入るんですけれども(中略)私は本当、死ぬ死ぬ詐欺なんて笑っているんです」
それにしても何度も再発や転移を繰り返しながら、なぜピンピンしているのか。医療ジャーナリスト・田辺功氏はその秘密について、「四次元ピンポイント照射治療の効果ではないか」と語る。
四次元ピンポイント照射治療とは、がんの放射線治療法の一種だ。縦横奥行きの“立体的照射”に加え、呼吸などによる体の動きのタイムラグ、つまり“時間軸”を計算し、がん細胞を追尾しながらピンポイントで放射線を照射する。
樹木が2007年から治療を受けてきたのは、鹿児島にあるUMSオンコロジークリニックだ。
「四次元ピンポイント照射の機械は全国に数台ありますが、同クリニックでは院長の植松稔氏が開発した独自の機械を使っています。
患者をベッドに固定したままベッドをスライドさせて放射線を照射するもので、呼吸などによる“ズレ”がないため、狙ったがん細胞に強力な放射線を当てられる」(田辺氏)
樹木自身も『クローズアップ現代』で、「放射線のピンポイントの治療なんで、非常にこれは楽な治療なんですね」と語っていた。
ただし、健康保険のきかない自由診療のため、「治療費は200万~300万円ほどかかる」(田辺氏)という。都内に住む樹木の場合、これに交通費や滞在費用が加わる。
樹木は『女性セブン』2012年9月27日号でのインタビューにこう答えていた。
〈(治療は)週に何回じゃなくて毎日で……。通うことはできないから、1か月くらい滞在したんですよ〉
樹木はUMSオンコロジークリニックに定期的に検診に訪れ、再発が判明するたびに四次元ピンポイント照射治療を受けてきたという。前掲のインタビューではこうも語っていた。
〈(がんとは)つきあいたくないけど、出てくるものはしょうがないですよね。私の場合、日々の生活の仕方は、がんを受け入れているという形なんですよ〉
がんの発見が遅れて、気づいた時には手遅れになっているケースは珍しくないが、頻繁にチェックしている樹木は、「がんであるがゆえに、早く他のがんが見つかり、結果的に長生きできている」(田辺氏)わけだ。
UMSオンコロジークリニックからは「患者さんからの問い合わせ以外には応じない」とコメントは得られなかったが、クリニックのHPで植松院長は次のように書いている。
〈一つだけ確かなことがあります。それは、進行がんや転移がんを確実に治す方法などこの世にはどこにもないのに、現実には治る人と治らない人にはっきりと分かれるということです。
そして治った人、病気を克服した人は、ほぼ全員が無理ない形で医療の力を利用しながらも、最終的には自分の力で病気を克服しているということです。(中略)
自分の身体の力でがん細胞と闘う免疫細胞にしっかりとスイッチが入ったということを示しています〉
[引用/参照/全文:週刊ポスト2016年3月4日号]
http://www.news-postseven.com/archives/20160223_387283.html