故・北公次氏
34年前に動画で告白
2023年9月4日放送の昼のワイドショー『情報ライブ ミヤネ屋』でジャニーズ草創期の男性アイドルグループ「フォーリーブス」メンバーの北公次さんによる告発について振り返った。
フォーリーブスは、ジャニーズ事務所の草創期、1967年に結成された北公次、江木俊夫、おりも政夫、青山孝史からなる4人組グループ。2009年に青山、12年に北が亡くなった。
フォーリーブス
7年連続で紅白歌合戦に出演するなど、70年代を代表するアイドルとして活躍したが、78年に解散。ジャニーズに残ったのはおりもだけで、北は88年にグループ結成前からのジャニーズ事務所の暴露本『光GENJIへ』を出版。翌年、同名のビデオも発売された。
35年前、ジャニー喜多川氏を糾弾する北公次さまの血の叫び!!
「テレビは、レポーターは、何もやってくれない!芸能界、みんな、わかっててわかんないフリしてるだけなんだよ!」
映像版「光GENJIへ」https://t.co/qGTbJaHnB4 pic.twitter.com/OQe9hq6egb
— 村西とおる_サブアカウント (@MuranishiToru_2) September 3, 2023
ビデオは、1時間の北の語りと街の声で構成されたものだ。
一部では北が無理やり言わされたとか、ウソを語ったようにもいわれているが、北の三十数年前の話は今、問題になっているジャニー喜多川氏の性加害に関するものと同じである。
中学を卒業して集団就職で名古屋、大阪、東京へと流れ、ジャニー喜多川と出会ったのは日劇ウエスタンカーニバルだった。
当時、大人気だったグループ、ジャニーズの「付き人にならないか」と誘われ、ジャニー喜多川の住まいだった四谷のお茶漬け屋の2階に住むことになる。美少年だった北を「触りに来たりとかそういうことがありまして」。
その後、当時、アメリカ大使館に勤めていたジャニー喜多川は昼間の休憩、食事の時間になると帰ってきて「体にキスしたり、僕自身……を舐めたりとか、そういうことをやって……仕事に戻る生活が続いた」。
1年ほどジャニーズがアメリカに渡ったため、ジャニー喜多川も不在にした。帰ってきた時の第一声は「ごめんね」だった。北を一人残し寂しい思いをさせたことをわびたのだが、それから行為がエスカレートしていった。
「男性のものが……突っ込まれる初めての経験」「痛いし、この人、何やってんだろう」
だが、北は将来を考えて我慢した。「ジャニーの言うことをきかないとデビューできない」「我慢しなくちゃいけないと思って」。現在、性加害を訴えている元ジャニーズ所属のタレントの主張と見事に重なる。
そしてこう語った。
「今までもフォーリーブス時代に本を出したことがあるんですけど、ジャニーとの絡み合いがいつも抜けてる。今回は自分の人生において、ジャニーとの関係を出さないと再出発はあり得ない」
人気絶頂を経験したアイドルの決意の告発。
『光GENJIへ』で「おそらくジャニーズ事務所のなかでは今もきっとこれと同じことが行われているだろう」と書いた。
北はジャニーズ事務所を離れる前から覚醒剤に手を染めた。貯金魔だったはずが解散した時には銀行の口座に1円も残っていなかったという。性被害、アイドルからの凋落の中ですさんでいった。
そして12年に北が肝臓がんで亡くなる。その直前に死期を察した北はジャニー喜多川、メリー喜多川に向けメッセージをつづった。
北公次ブログで最後のメッセージ
「本当に本当にありがとうございました そして最後にどうしても言わせて頂けるなら ジャニーさん、メリーさん ありがとうございました」
北は最後の最後にジャニーさんを慕う気持ちを伝えたかったということだろう。
[via:日刊ゲンダイ]
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/323981
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/324689
おりも政夫
恩師の性加害疑惑に思うこと
元フォーリーブスのおりも政夫(70)が、ENCOUNTの取材に応じた。おりもはインタビュー開始前に言った。
「これはナーバスな問題です。僕は新たなことを言って騒ぎを大きくするつもりはないですし、どちら(告発者側とジャニーズ事務所)の擁護、弁護をするつもりもありません。
ただ、傷ついてしまった人たち、僕を育ててくれたジャニーズ事務所の状況、何よりファンの方々が心配です」
おりもは中1の13歳でジャニーズ事務所入りした。1966年末、事務所を訪問した際、初対面のジャニー氏から「You、いいね。おいでよ」とスカウトされたことがきっかけだった。
翌67年1月には、後にフォーリーブスとなる4人の“ジャニーズjr.”が結成された。
「先輩グループのジャニーズがいるだけの小さい事務所でした。レッスン場は代々木にあるビルの4階。僕は都内の自宅からそこに通う日々でした」
68年9月5日、『オリビアの調べ』でレコードデビュー後、4人は瞬く間にトップアイドルになった。ヒット曲を連発し、70年からNHK紅白歌合戦に7年連続出場。ファンには日常的に追っかけられたが、78年にグループは解散した。
「当時は今のようにアイドルが長く活動できる時代ではなく、解散となりました。ただ、僕はジャニーズ事務所に残り、94年の41歳までお世話になっていました」
解散後、それぞれが芸能活動をする中で、北が発売した自著でジャニー氏からの性被害を訴えた。おりもにとっては、寝耳に水の出来事でショックを受けたという。
「コーちゃんからは何も相談はなかったですし、ただただ驚きでした」
解散から約23年後の2001年、4人はグループ再結成を決意。活動を始める前に、おりもは江木とともにジャニーズ事務所を訪れ、メリー喜多川副社長(当時)と対面したという。
「ジャニーズ事務所によって誕生したフォーリーブスとしての活動の許諾を得るためでした。とても厳しい方ですが、『後ろ(後輩)が見ているから、恥をかかすことはしなさんな』と言っていただきました」《中略》
再結成後の活動は、別の事務所がプロデュースしていた。だが、ジャニーズ事務所は口を出さず、見守ってくれたという。
グループとしての活動は、09年3月29日のラストコンサートで終了し、12年2月22日には北が肝臓がんで旅立った。北が亡くなる前日に残したメッセージには、こう記されていた。
「ありがとうを言うのもこれで最後です 今まで応援ありがとうございました。そして最後にどうしても言わせていただけるならジャニーさん メリーさん ありがとうございました 感謝しています」
この事実を踏まえ、おりもは言った。
「性加害は許されないことですし、被害に遭ったことを話されている方々のケアはとても大事です。ただ、コーちゃんは、亡くなる直前まで『ジャニーさんに謝りに行きたい』と言っていました。
そして、僕も含めて被害に遭ってない人たちも多くいるわけで、ジャニーズのOBや現役を変な目で見ないでほしいです」《中略》
ジャニーズ事務所は変化
おりもは、事務所OBを含め、解散や活動を休止したグループへの願いを持っていた。
「男闘呼組のように復活して、ファンをまた喜ばせてほしいです。彼らはメンバー4人のうち3人がジャニーズから出ているのに活動を再開できた。かつてでは考えられないことで、ジャニーズが変わってきた証しです。
理屈的にはSMAPだって再結成は可能ですし、全員がジャニーズ所属の嵐も活動を再開してほしい。本人たちが決めることですが、それを望んでいるファンが多くいることを忘れないでほしいです」《中略》
古巣が難局を乗り切るために、おりもはOB、現役が思いを一つにすることを願っている。
[via:ENCOUNT]
https://encount.press/archives/459349/
北公次 プロフィール
(きた こうじ)
本名:松下 公次
(まつした こうじ)
愛称:コーちゃん
生年月日:1949年1月20日
没年月日:2012年2月22日(63歳没)
出生地:和歌山県田辺市
職業:歌手、俳優、タレント
活動期間:1966年 – 2012年
1965年の正月、日劇ウエスタンカーニバルのステージの裾で一人観ていた際にジャニーズ事務所の社長・ジャニー喜多川に見初められ「君、ジャニーズが好きなの?それじゃあジャニーズに会わせてあげるよ!」と楽屋へ誘われ、ジャニーズの付き人になることを快諾。
その日より四谷三丁目のお茶漬け屋の2階にあったジャニー喜多川の自宅兼合宿所で住み込みを始める。その後まもなくして渋谷区神宮前2-21-21の御子柴ビルに転居。
1967年4月1日、ジャニー喜多川より「北公次」という芸名を授かる。喜多川の“喜多”が由来。
1968年9月5日、「オリビアの調べ/壁のむこうに」でCBS・ソニーレコードよりフォーリーブスのメンバーとしてメジャー・デビュー。ステージでバック転を披露した最初の歌手(アイドル)である。
当時の少女たちの圧倒的支持を得て、結果的にGSブームを終焉に追い込むこととなり、新御三家登場までの時代をつなぐ人気アイドルとなった。1970年から7年連続で「NHK紅白歌合戦」に出場している。
1970年代後半になるとニューミュージックに人気が集まり男性アイドル冬の時代に突入、フォーリーブスの人気も下降しジャニーズ事務所も低迷期に陥り、1978年8月31日を以て解散した。
解散と同時にジャニーズ事務所を退社。退社後はダンス修行目的で渡米。しかし上手く目的を果たせず帰国後、第一プロダクションへ移籍。
解散翌年の1979年4月に覚醒剤取締法違反で逮捕された。
本人のインタビューによると「覚醒剤を必要とする度に購入資金をメリー喜多川から毎日2~3万円ずつ貰っていた」と答えている。その合計金額は、3年間で約1500万円に達したという。
釈放後に出身地の和歌山県田辺市に帰郷して漁業組合に就職したがしばらく勤務した後に退職。白浜温泉のスナックなどでアルバイトをしていた。まもなく芸能界へ復帰。
1982年から6年間の結婚生活の後に離婚。その後復縁、1992年に再度離婚。
1983年、北のファンであった金子正次のオファーを受け、映画『竜二』に出演。
金銭的には行き詰り、以前から帰郷と上京を繰り返していたが、離婚を期に田辺市に蟄居。ブティック経営を手伝い、洋服の箱詰め等の雑用をしていた。
そこに、ジャニーズ事務所を糾弾するため、各所を奔走してジャニーズの裏情報を募集していたAV監督の村西とおるから復帰話を持ちかけられる。
北が村西の元を去ったことにより復帰話は一時頓挫する。しかしその事をきっかけに1988年11月にデータハウスより半生記『光GENJIへ』を出版。
『光GENJIへ』は、ジャニーズ事務所に関する暴露本、批判、糾弾本として最初の一冊であった。
同書はベストセラーとなりシリーズとして全10刷を数えたが、『光GENJIへ』シリーズをはじめとするジャニーズへの暴露や批判活動に関する報道は、一部の雑誌やスポーツ紙を除き在京TV局、ラジオ局ではほぼなかった
北自身は後年、『光GENJIへ』シリーズ出版やそれに伴うジャニーズ批判活動で得たギャラや収入はライブや酒につぎ込んだ、ライブも最初のうちは本の話題性で客は来ていたが長くは続かなかった、ギャラに目がくらんで恩人を裏切ってしまった後悔の念を述べていた。
1994年、44歳の時に客として訪れていたパブスナックのママをしていた7歳年下の女性と3度目の結婚。都内のホテルで披露宴が行われた結婚式と披露宴の模様は「ルックルックこんにちは」など複数のTVワイドショーで中継された。
各番組は祝福ムード一色で取り上げ、反ジャニーズ活動については一切言及がなかった。披露宴にはフォーリーブスの他のメンバー3人も出席した。
2002年1月にフォーリーブスを再結成。往年のファンからの支持を受け、2009年に青山孝史の急逝を経た3月29日の無期限活動休止まで、ライブ中心に活動した。
2012年2月4日、ファンの前で妻が北の肝臓がん発覚と病状を報告、治療費のカンパを募った。江木とおりもがそれぞれのブログ記事で北の肝臓がん発覚と病状を公表し、二人で話しあい北をサポートしていくとを報告した。
しかし2月21日に容態が急変。病室に江木とおりもが駆けつけて対面した。
2012年2月22日、肝臓ガンのため都内の病院で死去。63歳没。葬儀は創価学会の「友人葬」形式で営まれ、親族や関係者約250人、ファン約400人が弔問した。
[via:https://ja.wikipedia.org/wiki/北公次]
『僕とジャニーズ』トークイベント
村西とおるが35年前に糾弾!
ノンフィクション作家の本橋信宏氏による『僕とジャニーズ』(イースト・プレス)の発売記念トークイベント第1弾が8月15日、阿佐ケ谷ロフトAで行われた。
「ジャニーズ性加害問題当事者の会」の平本淳也代表(57)、石丸志門副代表(55)、メンバーの大島幸広氏(38)、中村一也氏(36)がゲスト出演した。
本橋氏は今から35年前、元フォーリーブスの北公次の著書『光GENJIへ』で、本人から話を聞いて代筆する“ゴーストライター”を務めていた。
そのプロデュースをしていたのが、『全裸監督』で有名なAV監督の村西とおるだ。
当時、村西監督は、AV女優の梶原恭子と人気絶頂の田原俊彦とのスキャンダルを巡り、ジャニーズ事務所のメリー喜多川氏と揉めに揉め、「ジャニーズ事務所(秘)情報探偵局」なるホットラインも開設していた。
村西とおる監督
ジャニー喜多川氏による衝撃的な性加害を糾弾した『光GENJIへ』は一大センセーションを巻き起こし、35万部の大ヒットとなる。本橋氏は観客を前にこう話した。
「しかし完全なゴシップ扱いで、一般紙はどこも取り上げてくれなかった。もちろんテレビもです。扱ってくれたのは一部の夕刊紙と実話誌だけ。事件化はおろか、社会からはなかったことにされていました」
さらに村西監督は、当時、村西監督のダイヤモンド映像に広報担当や作家として出入りしていた本橋氏に『映像版 光GENJIへ』というドキュメンタリービデオの制作を指令。
本橋氏は「太田春泥」名義で、監督としてダイヤモンド映像のターザン八木らと共に撮影に挑むことになる。
『光GENJIへ 北公次』VHSビデオ
会場でその一部が紹介された。バンダナを巻いて黄色いジャケットに身を包んだ北公次がやや舌足らずな口調で涙目になってカメラに向かって訴えかける。
「この人(ジャニー氏)の言うことを聞かないとデビューできないと思ってましたから。正直言って必死に我慢しました……女の人とやりたいのに、何でこんな人とやらなきゃいけないんだろうって苦しんだ。でも我慢してフォーリーブスとしてデビューした」
「俺から言わせれば、ジャニーズ事務所は男版の大奥だね」
「光GENJIだって、他のタレントだって、みんな同じ目に遭っていると思う。みんなウラではツラいんだぜ。俺から言わせれば、タレントがかわいそうだぜ」
悲痛な叫びに会場は静まり返る。
さらにそのドキュメンタリー映像の中には、7人もの元ジャニーズJr.の告白映像(一部顔にボカシあり)が収録されており、一様にジャニー氏からの被害を赤裸々に語っている。
ことし2月に放送されたBBCのドキュメンタリー番組のはるか以前の35年前に“実名顔出し”の告発映像が撮られていたことに驚く。貴重な映像を前に、観客も思わず固唾をのむ。
「1988年の段階で、すでにジャニーズ事務所に対する自粛や忖度は存在していた。村西監督は、周囲からクレージーだと言われながら、たったひとりでジャニーズ事務所と戦っていました。
撮影にあたっては“何としてもケツを掘られた少年を探すんです。ケツです、ケツ”と何度も言っていました(笑)」(本橋氏)
ビデオに登場した告発者のひとりに、現在「当事者の会」代表である平本淳也氏(当時23)がいた。
平本氏はその後、被害に遭ったメンバーと共に「新・光GENJI」(後の「SHADOW」)として活動するが、やがて本橋氏のことを“師匠”と呼ぶようになり、ジャニーズ事務所の内情に通じる作家に転身。平本氏はこう語った。
「僕の本は“暴露本”と言われていましたが、今は“告発本”と言われるようになりました(笑)。BBCからは5年ほど前にアプローチがあって協力させていただきました」
「ジャニーズ性加害問題当事者の会」平本純也氏 石丸志門氏 大島幸広氏
「殴られる、蹴られる、そして襲われる」
副代表の石丸氏が続ける。
「私はかつてスターになることを本気で目指していました。ジャニーズ事務所に入り、厳しいレッスンで灰皿が飛んでくるのと同じ感覚で“殴られる、蹴られる、そして襲われる”ことは当たり前だと思っていた。
洗脳されていたんです。これから芸能界を目指す人のためにも、そうしたことが起こらないよう活動を続けていきます」
「当事者の会」メンバーの中では比較的若い、大島幸広氏、中村一也氏のふたりは、35年前の元Jrの告白を初めて見たと言い、自分たちが受けた被害とやり口が全く変わっていないことに驚いていた。最後に本橋氏はこうまとめた。
「これが女性だったら大問題になっていたはずです。しかし当時はLGBTという概念もなく、警察にも男性の性被害など相手にしてもらえなかった。35万人もの人が本を読んでいながら、なぜあの時、変わらなかったのか……」
今回の著書では、その内幕が惜しみなくつづられている。“前科7犯のこの男に、今こそ全国民は謝るべきだ”というオビの文言の案もあったという。
改めて“戦後最大のタブー”であるこの問題の根深さが浮き彫りになった格好だ。
[via:日刊ゲンダイ]
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/327749
『僕とジャニーズ』を出版した本橋信宏氏
本橋信宏が語る舞台裏
『光GENJIへ』は元トップアイドルが実名で告白した最初の一冊となったが、事態は変わらず、今年になってようやく社会問題として認識されるようになった。
そんな中、『全裸監督 村西とおる伝』などの作品で知られる作家・本橋信宏さんが、8月に上梓した著書『僕とジャニーズ』で、自身が『光GENJIへ』のゴーストライターであったことを明かした。
本橋さんは「あの本が虚構の書であるというデマが流れ、黙っていては間違った史実がまかり通ってしまうと思い、当事者の私があえてゴーストライターとしての掟を破り、素顔をさらして、嘘偽らざる舞台裏を公開しました」と語る。
35年前の出版はどう実現し、北さんは告白後も動かない社会に何を感じていたのか。
出版のきっかけは1988年、「ジャニーズ事務所マル秘情報探偵局」にかかってきた1本の電話だった。
この風変わりな電話回線は、ジャニーズ事務所とのトラブルをきっかけに村西とおる氏がこの年に開設したもので、所属タレントのスキャンダル情報を募集していた。
「開設わずか1カ月で1000件以上の情報が吹き込まれ、9割方は罵詈雑言でしたよ。ただ、タレントの女性問題や内部情報なども複数あったんです。
その1つが、『フォーリーブスのリーダーだった北公次がジャニー喜多川氏と1960年代後半から同棲していた』という情報でした」(本橋さん)
村西氏の部下だった人物は、その情報をもとに和歌山県田辺市を訪れ、北氏を見つけ出して東京に来るように説得した。
芸能界を離れ、地元で土木作業員などとして働いていた元アイドルは上京後、ジャニーズ時代を回想して一冊の本にまとめることに同意する。それが本橋さんと“公ちゃん”の出会いだった。
「浅草のホテルにこもって話を聞いたんですが、決定的な話は出てこないんですね。
『ジャニーさんと親密な関係にあったっていうのは、本当ですか?』と聞いても、彼に『ないよ』と否定されて、街の噂だったのかなと一旦は引いたんです。ところが4日目になって、突然告白が始まった」(同)
実はその前日、村西氏が説得し、逡巡していた元アイドルの背中を押していた。別れた妻にも話さなかった事実を、堰を切ったように語り、すべてを話した後は放心状態だったという。そうしてできた1冊が『光GENJIへ』だった。
35万部のベストセラーになっても、ごく一部の週刊誌や夕刊紙をのぞいてメディアは沈黙を続け、性加害の訴えはまるでなかったかのように、その後もジャニーズ事務所の隆盛は続いていく。
「新聞社やテレビ局もスルーしました。当時の芸能界への偏見もあっただろうし、LGBTの概念もない。警察も男同士の性犯罪は動かなかった。
事務所にとっても、やり過ごせば忘れられるという、言わば成功体験になってしまったんでしょうね。結果として、50年以上にわたって東京のど真ん中で少年たちが性被害にあっていったわけです」(同)
『微笑』『週刊大衆』『FOCUS』『週刊文春』『アサヒ芸能』など、一部の週刊誌は報じたが、テレビやジャニーズ事務所との関係が深い出版社での掲載はなかった。
北さんは当時、『FOCUS』の取材に〈本を出した時、レポーターや記者がドッと来ると思ったけど一切来なかった。その時“ジャニーズ事務所の力はすごいな”と思いましたよ〉(1989年8月18日)と答えている。
発売後、版元に事務所からの抗議などはなかったという。
ジャニーズ事務所は当時、『週刊文春』の取材に対し、「北にやらせたのはアダルトビデオの村西とおる監督。卑劣な挑発に同じ土俵で戦うつもりはありません」(1988年12月1日号)とコメントしている。
テレビや新聞など大メディアは沈黙を続けたが、思いがけない展開もあった。北氏を慕う元ジュニアらが自らの傷を語り始めたのだ。翌秋、本橋さんが監督となり、彼らの声と北さんの証言をおさめたビデオ『光GENJIへ』が発売される。
ビデオでの証言者には「ジャニーズ性加害問題当事者の会」の平本淳也代表や、元ジャニーズJr.の木山将吾(山崎正人)さんがいた。
木山さんは後に、著書『SMAPへ そして、すべてのジャニーズタレントへ 』の中でその無念さをこう著した。
〈僕らが書いた告発本も4、5冊にのぼって、何度か週刊誌の取材も受けてきたが、僕たちがテレビで取り上げられることも、ジャニーのホモセクハラが話題になったり、社会的制裁が与えられるようなこともなかった〉
〈告発以降、ジャニーズとの戦いは、まるで象に噛み付く蟻のようなもの〉
『僕とジャニーズ』の担当編集者、穂原俊二さんは「1988年の時点で糾弾されていたのに、何も変わらずに性加害は続いていた。当時と今の証言内容は全く同じ。35万人もの人が読んだのに、全く変わらなかった。それはなぜだったのか」と問う。《後略》
[via:Bengo4.com]
https://www.bengo4.com/c_18/n_16428/
ネットの反応
・こんな動画が有ったとは…。
・今騒がれてる事をそっくりそのまま35年前に言ってる…
・北公次さんの悲痛な叫びを見てたら胸が詰まりました
・北公次、どんなに無念だっただろう。
・「20年間まだ同じ事繰り返してる」って告発してるのがやべーな
・35年前から何にも変わらなかったんやろな
・北公次が訴えた時、みんなスルーしたよね
・北公次さんが全面的に正しかったのですね
・本は知られているけど、ビデオがあるのは知らなかった。しかも村西とおるプロデュースだったとは!
・告発ビデオが村西とおる事務所制作ってとこがナイスですね!
・村西とおる事務所制作、告発ビデオが今になって公開されたことに「お待たせしました、お待たせしすぎたのかもしれません。」とだけ言わせていただきたい。
・実話ナックルズ「北公次さんの告白ビデオに関しては、うちは過去何度も記事にしてるんですがねえ…」
・このビデオを発売したときに光GENJIに「見るな」とメリーが発言させたらしい。
・やっぱり存続させてはダメな事務所やな。
・若い方だとフォーリーブスも知らないし北公次さんの本も知らないだろうな。
・ジャニーさんに感謝していた話が黙殺されている。
>そりゃ自分をフックアップしてくれたんだからジャニーには感謝してるだろうね。
・告発者の代表である平本さんは、過去にご自身のブログで「メディアへのジャニーズの圧力はなかった」と言ってる。
>所属タレントだった平本に何がわかるの?
・北公次の暴露本はお金に困ってジャニーズ事務所に恨みを持っていた村西とおるにけしかけられて書いた物。
・ミヤネ屋 信憑性のない人のV流して大丈夫なの
・ミヤネ屋は偏向報道だめ 北公次さんの話をそのまま流すならまっったく裏取り取材していない事を証明してしまうけど大丈夫?
>報道1930、報道特集ですでに流れてしまってますけど
・北公次さんはフォーリーブス再結成時にステージ上でビデオは嘘だったと発言。
>情報源は?
>北氏の知人が直接「あれ(映像の内容)は嘘だった」と聞いたお話も出ている。
・北さんは、ジャニーさん、メリーさんに謝罪して和解をしました。だから、その後フォーリーブス復活もありました。
>おりもの記事で「コーちゃんは、亡くなる直前まで『ジャニーさんに謝りに行きたい』と言っていました」とあるから直接会って謝罪はしてないでしょ。
>再結成時にメリーと対面したのはおりもと江木だけ。
・もし本当に性加害されてたら、死ぬ間際に、ジャニーさんやメリーさんに会って謝りたいなんて言わないよねw
>性加害は別として、裏切って(しゃべって)しまい、ごめん!っていう謝罪でしょ。
・本橋信宏ってジャーナリストの肩書きで出てたけど村西とおるのAVに出てた元AV男優だよね。
>元AV男優がジャーナリストに転向したらだめなの?
・ジャニオタはどうしても無かったことにしたいのな
・ジャニーズファンの否定したい気持ちはわからんでもないが、これだけの被害者が口をそろえて証言してるんだから、事務所ともどもファンも性加害はあったと認めることから始めないと問題解決は遠いな。
・ジャニーズ事務所問題をワイドショーが正義のように報道するのに違和感。
・日本のマスコミが被害者でも加害者でもバックのない立場の弱いものばかり報道するのは昔から。ジャニーズ報道も本人が死んでから。
・性加害を告白していたタレントがいたのに、何故マスコミや警察はこれを無視したのか
・でもタレントさんの仕事奪うのは違う。被害者なのだから。
【Amazon】
【関連記事】
- ジャニーズ「再発防止チーム」メディアの忖度指摘にテレビ各局が声明発表 ジュリー社長退任で後釜は?
- 元ジャニーズJr(当時13歳)が国会で故ジャニー喜多川氏の日常的な性加害を証言「通過儀礼、拒んだ人は消えた」
- ジュリー社長「異常経営」認めたが…メディア支配の“呪い”は解けるのか?触れなかった事務所ぐるみの可能性
- カウアンとの会談を望んだジュリー社長…その目的は?ジャニーズ事務所は近々「重大発表」か?
- 元ジャニーズJr.が故・喜多川氏の性的虐待告白&マンション内部公開 沈黙のメディアに責任は?8人目の証言も
- 英BBC「ジャニー喜多川の性加害スキャンダル」辞めジャニが顔出し衝撃告白!取材班が驚愕したヤバい現実
- 元ジャニーズJr.が故・喜多川氏の性的虐待告白&マンション内部公開 沈黙のメディアに責任は?8人目の証言も
- 博報堂「ビジネスパートナーへの配慮」ジャニーズ事務所への忖度認める セクハラ問題などの記述削除で騒動
- 英BBCがジャニーズへ宣戦布告!故・ジャニー喜多川氏の性虐待問題に迫るドキュメンタリーを放送予定
- ジャニーズvs文春が全面戦争!?「ジュリー社長の冷血支配」暴露記事で法的措置を検討 キンプリ分裂 滝沢退社の真相
覚せい剤中毒の妄想をゴーストライターが盛ったんだったんだよね
晩年あんな話にのってしまって後悔しまくってたらしいって