□女優宮沢りえ(41)の母で所属事務所代表の宮沢光子さんが、肝腫瘍で23日に亡くなっていたことが24日、同事務所から公表された。享年65歳。
光子さんは一卵性母娘と呼ばれるほど常に宮沢と行動を共にするステージママで、ヘアヌード写真集「Santa Fe」、貴花田(現貴乃花親方)との婚約(のちに解消)など、話題になった様々な局面でその存在がクローズアップされた。
フランス在住後、病気の診断を受けてからは自宅で療養生活を送っていた光子さん。”りえママ”を語るうえで欠かせないのは1991年に発売された宮沢のヘアヌード写真集「Santa Fe」であろう。
観月ありさ(37)、牧瀬里穂(42)と並んで3Mと呼ばれ、トップアイドルだった18歳のりえを突然自分のプロデュースでヌードにし、篠山紀信氏が撮影した作品は155万部というタレント・女優写真集としての売り上げ部数記録を樹立。
「りえママは篠山氏の提案に、『自分とオランダ人の夫との間に生まれたりえは太りやすい体質なので、ヌードは早く撮っておきたかった』と二つ返事で承諾。
極秘撮影が行われた。発売1か月前に突如、朝日新聞だけに全面広告を掲載して発表するまで、関係者以外は知らないというトップシークレットで、これもりえママの手腕でした」と思い返すのは出版関係者。
予想通り、写真集は社会現象となるが、その後も二人は注目を浴びる。翌92年11月の大相撲関脇だった貴花田との婚約発表である。トップアイドルと”若・貴ブーム”の立役者という国民的人気の2人の婚約を仕掛けたのもりえママであった。
「マスコミは連日、りえのマンションと当時の藤島部屋に集結し”世紀のカップル”の一挙手一投足を取り上げる熱狂ぶりであったが、発表から2か月後に破局する。
その原因はりえママと藤島部屋のおかみさん・憲子さん(現タレント藤田紀子)のけんかだと言われている。相手がどんな大物でも娘を守るために一歩も引かない気の強さでした」(ワイドショー関係者)
貴花田が「愛情がなくなりました」と衝撃の婚約解消会見をした後、ショックを隠せないりえのため、りえママは新たな相手を探していたらしい。
噂になっただけでも市川右近、故中村勘三郎、桐島ローランド、市川海老蔵、中田英寿氏ら大物が並ぶ。なかでも勘三郎さんとは中村勘九郎時代の94年”自殺未遂騒動”を起こし、激ヤセ姿がニュースになった。
「京都のホテルで左手首を切ったのですが、りえは『泥酔し、持っていたグラスで切った事故』と説明したが、その直前に勘九郎さんと一緒だったことが判明し、不倫騒動に発展。
勘九郎さんは『親子ゲンカで泥酔したようですが、りえママの待つホテルに送り届けた』と釈明したのですが、2人の関係はいまだに語り継がれてます」(映画関係者)
りえママは取材する記者にとってもかなりの脅威だった。傍らにいつもボディーガードのように寄り添っていて、目を光らせていた。95年に公開された映画「蔵」では、りえがクランクイン直前になって降板する騒動があった。
「脚本を見たりえママが、浅野ゆう子とのダブル主演を頑として認めず『なんでりえが2番手なのよ!』と激怒したのが真相であった。トップスターであるりえの地位を守るため、なりふり構わない姿勢でしたね」(別の映画関係者)
こうした光子さんの姿を間近で見てきたりえだけに、訃報に寄せたコメントも意味深かった。
「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」
りえママは8年ほど単身フランスで過ごした後、2006年ごろから再び同居。09年にりえが長女を出産した後は、孫をほほ笑ましくあやす姿も見かけられた。
りえは現在、舞台「火のようにさみしい姉がいて」(東京・渋谷Bunkamuraシアターコクーン)の公演中。母の死をどう語るのだろうか。
[引用/参照:http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/316298/]
ざまあ